<世界は、何かを創造したい人と、ノーと言いたい人でできている>

これは、LA行きの飛行機の中で、読んだ本
『アメリカ・メディア・ウォーズ 〜ジャーナリズムの現在地』
大治朋子(講談社)
の中の一節です。

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「メディア変貌の先進国」アメリカの姿を丁寧に描く本書は
実にエキサイティングでした。

著者が新聞記者として培ってきた「取材と記事構成のノウハウ」も
随所に紹介されていて、非常に勉強になりました。

(その紹介の仕方、本文への埋め込み方が、実に理にかなっていて見事です。
通常、自分のノウハウを紹介する際には、どうしても自意識が多分に出てしまい
冗長になるものなのですが、一切の無駄がありません。

メディアの大先輩を分析するのも図々しい限りですが、
記者として相当の経験と訓練を積まれている方と見受けられます)


極めて冷静に、客観的に取材を重ね、
丁寧に分析していく中に、
このエントリーの冒頭に紹介した
<世界は、何かを創造したい人と、ノーと言いたい人でできている>
といった熱い言葉が、ふっと顔を出すため、
より効果的に響きます。

(注:引用の一節は、著者自身の言葉ではありません)

とりわけ「おお!」と膝を打ったのは
最終章「調査報道は衰退するのか」の終わり近くでの
「ジャーナリズム」の日米比較です。

アメリカのジャーナリズムについて、著者は下記のように語ります。

・アメリカでは多くの現場の記者たちが、大切なのはあくまでジャーナリズムというソフトウェアであり、
その価値を信じることであり、
それを実績し、提示するための媒体、
つまりハードウェアは時代と共に変わるものだという
大局的な感覚を広く共有している。

・「新聞が消える日」とか「テレビがなくなる日」といったセンセーショナルな言葉に見られるような
媒体の変化がジャーナリズムの未来を左右するような
短絡的な見方はアメリカではあまり主流ではなくて、
それらはジャーナリズムの実践の土台の変化にすぎないという考えがある。

・だから、さまざまな形のメディアを作り、むしろ発信の場を多様化することで、
インターネットの拡充や経済の悪化といった時代の変化を、
多様なジャーナリズムを実践するチャンスにしようというプラスの発想にさえつながっている。


このような在り方を、著者は「木」にたとえています。

・ジャーナリズムという大きな幹があり、そこからテレビとかラジオ、新聞、インターネット、NPOメディアというったいろいろな枝葉が出ていて、
それが幹から送られる情報を開花させている。


図にしてみるとこんな感じでしょうか。

ジャーナリズム日米比較


「テレビや新聞が衰退すること」は枝葉の一つが枯れることでしかなく、
「ジャーナリズム」そのものの存在を脅かすことではない、
というのがよく分かります。


それと比較して、日本のジャーナリズムはどうかと言うと、こんな感じでは?

ジャーナリズム日米比較・日本

(この図は著者の記述をベースにしているのではなく、私なりにイメージしてみたものです)

ジャーナリズムは枝葉の一つでしかない。
よって、幹であるテレビや新聞が廃れたら、ジャーナリズム自体が枯れる可能性がある、
というわけです。


こうやって図にして比較してみると、
新聞やテレビが衰退することを前提に、「ジャーナリズムの危機」みたいなことが
日本でことさらに煽られる理由が分かります。



著者は、こう記しています。

私はこの一連の取材で、アメリカに「ジャーナリズムの木」が絶えてなくなることはないだろうという確信を抱いた。
それは現場の若い記者一人ひとりがジャーナリズムの重要性を信じ、そして彼らにいろいろな機会や場を提供するアメリカ社会の多様な価値観があるからだ。



アメリカのメディアにも、多くの問題点があり、
日本のほうが優れている点も数多くあると思うのですが、
この「ジャーナリズムの木」の在り方については、
日本は大いに学ぶところがあるのではないでしょうか。


さらにいえば、
この在り方は、ジャーナリズムに限ることではないと思います。

マンガにも、小説にも、雑誌編集にも、
あらゆる体裁のメディアにも当てはめられると感じます。

紙媒体はなくなるのか?
電子書籍は日本でも浸透するのか?
ウェブマンガは広がるのか?
みたいな議論は、2010年で終わりにしておいて、

そろそろ、
「この幹を、もっと太く強くするには、どこからどんなふうに栄養をとればいいのか?」
「その太くした幹から、より多くの花を咲かせるには、どんなふうに枝葉を伸ばせばいいのか?」


そういう実りある議論が、積極的に交わされる段階に来てるのではないでしょうか。


「ノーと言いたいだけの人」の意見は、
葉っぱの間を抜けていく、そよ風みたいなもんだと
思いますから。